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    云ひながら、道平はこれ又大いに気にかけていたことがあつさり片づけられてしまつたので、いくらか不服でもあり、手持無沙汰でもあるといつた様子だつた。

    房一は大きくうなづいて見せた。もう獲物は大分前からとまつていた。

    「おや、いつのまにそこに来てなさつたかね。お茶ですか、上げますとも」

    「やつは、わつしの土方家業がえらい嫌ひでしてな」と、彼は云つた。

    その長男、つまり房一の父にあたる人は、幼い時から百姓の子として育てられたわけで、風貌こそまるで一介の農夫であるが、単純で大まかな一種長者の風があつて、その住んでいる地域、つまり対岸の町を除く河場中の尊敬を一身に集めていた。老いと共に彼も先代の容貌に甚だ酷似して来たが、彼には先代のやうな底の逞ましさの感じがなくて、先代よりも凡々としていた。彼の妻はやはり士族の出で、上流の城下町から娶めとつたのであるが、三男二女を生んで死んだ。子供は大きくなつていたが、やはりその城下町から不幸な大工の娘を無造作に後妻に貰ひうけて、この女は肥つた人の好い気質の働き者であつたが、彼は家事一切を彼女に任せて何事もなく和した。

    その時、練吉はぐつと盃をつきつけた。

    若しもこの時誰かが、この男、徳次に向つて君はこの奥さんの幼い時に抱いたり負んぶしたりしたことがあるのかねとからかひ半分に訊いたら、彼は本気になつて考へこみ、何かしらそんなことがあつたやうに思ひ出し、信じこんだかもしれない。何しろ彼は房一とあんなに親しかつたのだ。盛子はその房一の奥さんだつた。してみれば、やはり古い以前から知つているも同然ではないだらうか。抱きかゝへてあやしたこと位あるかもしれない。

    だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気を診みてもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭を傾かしげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びていた)彼の持牛についた虱しらみをとる薬はやはり人間にも同じ効きき目めがあるのかね、と訊いたりするのであつた。

    「せんせい!」

    小谷は最近になつて、徳次と同じやうに、急に房一と親しくつき合ひはじめた一人だつた。もつとも、彼は徳次とちがつて房一の幼馴染ではなかつた。先代の築き上げたかなり手広い呉服雑貨店をそつくり継いだ、云はば生え抜きの河原町の連中だつた。その彼が房一に興味を持つにいたつたきつかけは、房一の妻の盛子と彼の妻の由子とが偶然同じ町の生れで、もとはそれほど親しくはなかつたが小学校での二三級違ひだつたことが判つてからのことである。盛子よりもずつと若い年にこの土地に嫁に来た由子は、今までろくに気の合つた話相手を持たなかつたので、この偶然をひどく悦んだ。それ以来、由子は裏手の土手づたひにしばしば盛子の所へ来ては話しこみ、盛子も由子の所へ行つた。由子はすでに二人の子持だつたし、その上、小谷が妾に産ませた子供を引取つていた。その妾が死んだからである。小谷の放蕩はうたうは由子が来る前からのものだつた。今はどうにか自然と止まつているが、由子は結婚以来殆ど楽しい思ひをしたことがないほど小谷の放蕩に悩まされた。そのあげくに、妾に産ませた子を引取らねばならないとなつた時に、由子は又一つ苦労の種を背負ひこむことになると思つたが、小谷の放蕩に悩まされるよりもこの方がどれだけましかしれないと考へて引受けた。こんなことを、つまり、娘の時以来何の面白い日もなく、彼女にとつての「人生」といふものを見、いつのまにか若さが自分から失はれてゆくのを空しく眺めるやうな、これらすべてのことを由子は今までどんなに他人に向つて話したかつたらう、打明けて心の底まで慰めてもらひたかつたらう、――今や、その得がたい相手が現れたのだつた。吾々が、男と女とを問はず、この世の中で真の友人を見つけるのはほんの僅かな又微妙なきつかけからだ。昨日までは別にそれほどでもなかつた、この茫漠とした捉つかみがたい世の中でやはり捉みがたい者としてしか現れない数しれない人達、その中から或る人の姿が突然身近かにかけがひのない者として感じられ、その人の心がこちらのすぐ胸の傍にあり、心はたがひに行き交かひ、温め合ひ、それによつてこの世の中そのものが今までよりもはるかに広く、なほ確かに感じさせるやうなもの、――それを由子は盛子の中に見つけたのだ。

    殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見ている間中、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはいられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつているのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えていたわけではないが、その眼玉は一体何を考へているのか判らないやうな気が房一にはした。

    「さやうでござりますか」

    「これからどちらへ?」

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